映画『爆弾』原作結末と”怪物”タゴサクの正体。山田裕貴との「鏡」関係、主題歌「I AM HERO」の意味を公開前に徹底考察
こんにちは!YOSHIKIです。
 いよいよ今週末、10月31日に公開される映画『爆弾』。
メインの記事(映画『爆弾』ネタバレ感想・考察!山田裕貴 vs 佐藤二朗の結末は?あらすじ・キャストを徹底解説)では、キャストやあらすじ、予告編の凄さについてお伝えしました。
しかし、この作品、調べれば調べるほど「面白いサスペンス」という言葉だけでは片付けられない、とんでもない深みを持った“事件”であることがわかってきました。

この記事は、YOSHIKIのメイン記事を補完する「深掘り分析・考察記事」です。
 ●なぜスズキタゴサクは「令和の怪物」と呼ばれるのか?その真の正体とは。
 ●なぜ山田裕貴さんは、この類家(るいけ)役を「自分への当て書きだ」と感じたのか?
 ●原作小説の「救いのない結末」は、映画でどう変わるのか?
 ●宮本浩次さんの主題歌「I AM HERO」は、一体”誰”の歌なのか?
 原作小説の核心的なテーマと、制作陣の狙いを「公開前」に徹底的に解剖します。
 この記事を読めば、映画『爆弾』を100倍深く、多角的に楽しめるはずです。
🟡考察①:”令和の怪物” スズキタゴサクの正体とは?「無敵の人」が生み出した虚無
本作の心臓部、スズキタゴサク(佐藤二朗)。
 試写会では「佐藤二朗の怪演」と絶賛の嵐ですが、彼はなぜ「怪物」なのでしょうか。
 リサーチで見えてきた彼の本質は、単なるテロリストではありませんでした。
タゴサクの動機:「犯人になること」という欲望
タゴサクの恐ろしさは、政治的思想や金銭目的のテロではない点にあります。
 彼の真の動機は「犯人になること」そのもの。
 原作では、彼は息子のテロ計画を引き継いだ悲嘆する母親・石川明日香の計画を乗っ取り、自分への憎悪や殺意を向けられることに性的興奮すら覚える、倒錯した心理の持ち主として描かれています。
「無敵の人」の具現化
前科のないホームレス。これがタゴサクの出自です。
 彼は、社会から疎外され、失うものを何も持たない、いわゆる「無敵の人」の象徴として描かれています。
 彼の悪意は、彼を無視し、孤立させた「社会そのもの」が生み出した”症状”であり、彼は社会の偽善を武器に「ゲーム」を挑んでくるのです。
🟡考察②:類家(山田裕貴)とタゴサク(佐藤二朗)は「鏡」である
タゴサクという「怪物」を唯一理解できる存在が、類家(るいけ)刑事(山田裕貴)です。
 この二人の息詰まる対決こそが、物語の核となります。
なぜ類家はタゴサクを理解できたのか?
類家もまた、社会の建前や偽善を見抜いてしまう「異端者」です。
 タゴサクと類家は、高い知性を持つ「鏡写し」の存在。
 唯一の違いは、虚無に身を任せるか(タゴサク)、それに抗う「ゲーム」を選ぶか(類家)という、たった一つの”選択”だけです。
(原作で、タゴサクが他の刑事を名前で呼ぶのに、類家だけを「刑事さん」と呼ぶのは、自分を理解する好敵手への敬意の表れとされています)
山田裕貴と類家の共鳴「これは俺への当て書きだ」
この「鏡」という関係は、山田裕貴さん自身が強く感じていたようです。
 プロデューサーから「本当の山田くんは、類家だ」と言われた彼は、この役を自分への「当て書き」だと直感したと、複数のインタビューで語っています。
 (出典:Movie Walker Press 山田裕貴インタビュー)
さらに、原作者の呉勝浩さん自身も、山田さんからの役に関する深い問いかけによって、自身が創造した類家というキャラクターへの理解が深まった、と認めています。
 これは、俳優が役を演じるだけでなく、役を「完成」させた稀有な例と言えますね。
🟡考察③:原作の「救いのない結末」は映画でどう変わるのか?
公開前、原作ファンが最も気にしているのが「映画の結末」です。
 原作小説の結末は、非常にビターで救いがありません。
原作の結末:「最後の爆弾は見つかっていない」
原作小説は、タゴサクとのゲームには一応の決着がつくものの、「最後の爆弾は見つかっていない」という、社会に脅威が残り続ける不穏な一文で幕を閉じます。
 まさに虚無的な、悪の勝利とも取れるエンディングです。
映画化への「唯一の要望」:「悪が勝つ物語にはしないでほしい」
しかし、映画化にあたり、原作者の呉勝浩さんは制作陣に「唯一」の要望を出しました。
 「悪が勝つ物語にはしないでほしい」と。
 (出典:SCREEN ONLINE 呉勝浩インタビュー)
呉さん自身、原作がタゴサクを真に打ち負かすことなく終わったと感じており、単なる虚無的な結論に陥ることに抵抗したかった、と語っています。
映画版の結末(予想):知性による「勝利」
この要望は、映画版の結末が原作とは異なる可能性を強く示唆しています。
 映画では、類家がタゴサクの仕掛けた「最後の爆弾(=石川明日香自身)」の起爆を阻止する推理を見せると言われています。
 これは、物理的な悪(タゴサク)を倒す勧善懲悪ではなく、彼の「虚無的な思想(ゲーム)」に対し、類家の「知性と理解」が勝利するという、原作者の願いを叶える見事な着地点になるのではないでしょうか。
🟡考察④:『爆弾』が突きつける「正義」への問い
本作は、観客自身の倫理観を激しく揺さぶる、二つの「問い」を突きつけます。
代々木の「トロッコ問題」
物語の序盤、ベテラン刑事の清宮(渡部篤郎)は、タゴサクから「子供たちの集団」か「ホームレスの集団」か、どちらかしか救えないという、現実の「トロッコ問題」を突きつけられます。
 清宮は本能的に子供たちを選び、ホームレスたちを見殺しにしてしまう。
 タゴサクは、正義を信じる清宮の「命は平等だ」という信念の「偽善」を暴き、彼の精神を破壊します。
 このシーンは、観客自身が持つ「命のヒエラルキー」を暴き出す、本作で最も不快で、最も重要な場面の一つです。
本当の「見つからない爆弾」とは?
原作の「最後の爆弾は見つかっていない」という言葉。
 これは物理的な爆弾のことだけではありません。
 物語が示す本当の爆弾とは、「すべての人間の心の中に潜む、黒いもやのような悪意や虚無」そのものです。
石川啄木の短歌「人といふ人のこころに一人づつ/囚人がゐてうめくかなしさ」が引用される通り、真の脅威はタゴサクではなく、我々自身の心の中にある「内なる囚人」なのです。
🟡考察⑤:主題歌・宮本浩次「I AM HERO」は”誰”の歌か?
宮本浩次さんが書き下ろした主題歌「I AM HERO」。
 このタイトルと歌詞が、物語の二面性を見事に捉えています。
類家とタゴサク、二人の「HERO」
主演の山田裕貴さんは、最初この曲を「タゴサクの歌」だと感じたそうです。
 しかし、「俺の野望 俺の絶望 俺の明日 さあ行くぜ I AM HERO」という歌詞を聴き、これは「残酷な世界に立ち向かう類家の歌だ」と考えを改めたと、イベントで語っています。
 (出典:THE FIRST TIMES イベントレポート)
宮本浩次さん自身は「本当の自分の声」を探求したと語っています。
 そう、この曲は「類家とタゴサク、両者のアンセム」として機能しているのです。
二人は同じコインの裏表であり、この曲は、映画の「境界線の曖昧さ」というテーマを完璧に音楽で体現しています。
🟡まとめ:映画館で”事件”を目撃せよ!

映画『爆弾』の公開前に、その核心的なテーマを深掘りしてきました。
社会の無関心が生んだ「無敵の人」であり、虚無の象徴。
タゴサクと類家は「鏡写し」の存在。
違いは「選択」だけ。
原作の「悪が残る」結末に対し、映画は原作者の「悪に勝ってほしい」という願いを汲んだ、「知性による勝利」が描かれる可能性が高い。
観客一人ひとりの心の中に潜む「悪意の可能性」こそが、真の脅威。
「I AM HERO」は、類家とタゴサク、両者の魂の叫びである。

これは、ただのサスペンス映画ではありません。
 我々自身の正義感、倫理観、そして心の闇を突きつけられる「哲学的事件」です。
 この予備知識を持って、ぜひ今週末、劇場でこの”事件”を目撃してください。
 そして鑑賞後は、ぜひ僕のメイン記事に戻ってきてください!
 最速のネタバレ感想と考察で、皆さんとこの衝撃を語り合いたいです!

 
 


コメント